「田原坂の戦い」 明治10年3月4日から20日までの17昼夜の壮絶な戦いを田原坂の戦いという。この戦いで薩軍は多く精鋭(美少年)を失い、以後敗走を続ける。西南戦争中最大の激戦地であり、勝敗を決する戦いであった。 |
|
先日、11月9日・10日の土日に玉名温泉の地、玉名市に「オール九州卓球愛好者大会」に参加した帰り道、田原坂公園の案内標識を見つけ、急遽ハンドルを切り田原坂方面に進んだ。 公園へと上っていく坂は狭く、車一台が走れる位であった。この約1.2Kmの坂道が、”一の坂”(左絵)”二の坂””三の坂”と言われる坂である。 一の坂は竹や杉の木が道を覆い、薄暗い。資料によると周囲より掘り下げられ、熊本城下を守るため、清正公が通した“要塞”だという。また参謀本部が編んだ「征西戦記稿」には「田原坂ノ地タルヤ、外昂(たか)ク内低ク、恰(あたか)も凹字形ヲ成シ…」とある。蛇行したこの凹道が官軍の歩みを阻んだ。見下げるように陣取った薩軍が、容赦なく銃弾を浴びせたということである。 辿り着いた田原坂公園は、小春日和の中、ひっそりとしており、あの壮絶な戦いが繰り広げられた地とは思えなかった。 |
【一の坂】 |
公園内の茶屋の前を進んで行くと、「西南の役戦没者慰霊之碑」が建っており、碑文を読むと、官軍6,923名、薩軍7,186名、殉難者29名の計14,138名の尊い命が亡くなったという。 そして更に歩いていくと、「薩摩塚」が建っている。 |
|