平成17年9月12日(月)。本当は足摺岬を見て日帰りで帰る予定でしたが、以前から憧れの坂本龍馬像を見たい気持ちがあり、急遽変更して高知市まで走り1泊することとしました。
高知城の傍の共済会館で朝を迎えました。
朝食後、まずは高知城に行ってみました。そこには歴史上でよく知っているあの人たちの像が待っていました。
<高知城> |
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関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊は、慶長6年(1601年)大高坂山に新城の築城工事を始め、慶長8年(1603年)に城の大部分が完成、入城した。 |
<山之内一豊像> 安土桃山時代の武将。土佐藩祖。 初め織田信長、後に豊臣秀吉に仕えた。 秀吉没後、徳川家康に仕え、上杉征伐・関ヶ原の戦 に功をたて、土佐20万石に封。 |
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<山之内一豊の妻像> 「内助の功」で有名な、現在の高知城の城主山内一豊の妻・千代である。 はぎれをつないで小袖に仕立てたところから、「千代紙」の名の元になったともいわれ人物だが、こうしたちまちました節約で内助の功を発揮したというのではない。 彼女の名を高めたのは、10両もする高価な馬だった。 一豊がまだ織田信長の一家臣にすぎなかったころ、そろそろ浅井・朝倉攻めが近いという噂でもちきりだった安土の城下に、馬売りがあらわれた。 その中の一頭がみごとな駿馬で評判になったのだがなにしろ10両。 わずか200石取りの一豊に手のでるものではなかった。 その馬を見てからというもの、家に帰ってもため息ばかりつく夫を見た千代は、嫁入りのとき「夫になにかあったときのために」と叔母にもらった10両を差し出だしたのである。 普通なら馬一頭が夫の一大事かどうかは考えるまでもないところだ。 ところが出陣前には馬揃えがあった。馬揃えとは、出陣前に支度を整えた家臣たち一同の閲兵式みたいなものだ。 一豊のひいていた駿馬は、いやでも信長の目をひく。 そんな立派な馬をどこで手に入れたと問う主君に、一豊は正直に妻に買ってもらったことを告げた。 このときから一豊は妻のおかげで出世したと後世にいわれるようになった。 千代の本当の内助の功はこのあと、関が原の合戦を前に、石田三成の旗げを、夫を通じて徳川家康にいちはやく知らせたことにあったようだ。 |
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<板垣退助像> (1837〜1919)明治時代の政治家。自由党の創立者。 土佐藩(高知県)の出身で,戊辰戦争では政府軍参謀として会津戦争に手がらを立てた。 このあと,明治政府の参議となったが,征韓論にやぶれて政府を去り,1874(明治7)年,後藤象二郎・副島種臣(そえじまたねおみ)らと民選議院設立建白書を政府に提出し,自由民権運動をおこした。 このあと,高知で立志社を,ついで大阪に全国組織としての愛国社(のちに国会期成同盟と改称)を結成。1881年に自由党が結成されると総理となり,翌年,岐阜で遊説中に暴漢におそわれて負傷した。 過激になってきた自由民権運動を指導できないで,1884年に自由党を解散。 のち立憲自由党の総理となり,また1898年には大隈重信と憲政党内閣をつくった。 |
それぞれの像を見て高知城内を散策した後、一応、はりまや橋を見てみました。